2018/1/22 月曜日

支払い

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飲食店で勘定を支払う際、わけ知り顔で『オアイソ』と言う者がいます。
『愛想』に丁寧語の『お』をつけた『お愛想』のことですが、これは本来、客が言う語句ではありません。

「お勘定を」
と言う客に対し、店の者が
「お愛想ですね」
と返すのが本来の やり取りです。

元々『愛想』とは浮かんできた考えや想念に執着するという意味の仏教用語で、固執して とらわれてはいけないとされました。
つまり決して良い意味ではなかったのですが、いつも不機嫌そうな対応をする者を『まったく愛想のない人だ』などと言うように、現在では『愛想』が好ましいものとして分類されます。

この変遷には遊郭が大きく関わっていたようです。
祇園の遊女たちが仏教用語を気の利いたふうに使い始めたところ、いつのまにか それが一般にも流行り、広く使われるようになっていったと考えられています。
商売上、客の気を引く素振りは重要であるため、『愛想を振りまく』わけです。
客も すっかり御執心となり、足繁く通うといった寸法です。
その逆が『愛想尽かし』で、略して『お愛想』といいます。
帰っていく客を(たとえ内心では せいせいしたと思っていても?)残念そうな素振りで
「あら。 もう、お愛想(尽かし)ですか。 お名残惜しい」
と送り出したようです。

このような経緯から、酒場を始め、一般的な飲食店でも“勘定を払って帰っていく客”に『お愛想ですね』と言うようになっていきました。
客の側が『勘定をお願いします』のつもりで『オアイソ』と言ってしまっては誤りなのです。

2017/12/18 月曜日

農業政策

Filed under: 未分類 — アートメモリー @ 0:04:56

『寒仕込み』や『寒造り』と表現されるように、日本酒は寒い季節に造ります。
酒(日本酒)は【御神酒:おみき】の名でも知られるように、本来は神事や先祖を祀る行事ごとに仕込み、供物にされていたものだったのです。
中世の頃には四季に応じた醸造法があり、春酒、夏酒など、それぞれの季節特有の美味い酒造りを行っていました。

冬の酒造りは江戸時代になってからのことで、これは幕府の農業政策によるものです。
かつては現在とは比較にならないほど豊作・凶作の差がありました。
原材料となる米の作柄に応じて、秋の刈り入れ後に酒の醸造用へ割り当てる分を決め、食糧不足を招かないようにしていたそうです。

この政策の結果、季節労働者としての杜氏が誕生するに至ります。
冬が農閑期でもあったことから、都合も良かったというわけです。
江戸時代中期には【醪:もろみ】から絞った酒(原酒・濁酒)を発酵が進みすぎて酢にしてしまわないよう、貯蔵法が発達していったことも、大きな理由の1つでした。

以来、12月から2月頃までの寒い時期に酒を仕込むことが習慣となり、継承されてきているのです。

2017/11/20 月曜日

47

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全国47都道府県。
つまり、1都・1道・2府・43県です。
何故すべて同じ名称ではないのでしょうか。

1871年(明治4年)の廃藩置県により、藩が県に改められることとなります。
その際、新たに『府』と『道』が設けられました。
『府』という呼び方は中国の行政区画で県の上を示すもので、東京、京都、大阪が『府』となったのです。

東京が『都』になったのは1943年(昭和18年)のことで、戦時下における首都機能の簡略化を目的に、東京府と東京市を合体させ、東京都にしたのだそうです。
北海道は1869年(明治2年)に、かつての蝦夷地という名称を改められています。

それまで(県に相当する)藩が全地域にはなかったため、天皇が政治の中心となっていた律令時代の行政区分の名『道』がつけられたのです。
一説によると、これを提唱したのは江戸後期の水戸藩主・徳川斉昭だとされます。

2017/10/16 月曜日

使用期限

Filed under: 未分類 — アートメモリー @ 0:35:44

火災に遭っても内部に損傷が及ばずにすむという耐火金庫。
実は20年という使用期限があり、それ以上の年月が経つと充分な耐火効果が得られません。

耐火金庫に使用されている耐火材には大量の水分が含まれていて、その水分が内容物を熱から守っているのです。
金庫の壁面に注入された特殊素材(発泡コンクリート)は化学反応で膨張し、隅々まで行き渡るのですが、乾ききらないうちに密閉されます。
このときに残った水分が火災で熱が加わった際に水蒸気となって噴き出し、金庫の内部を冷却する仕組みになっているわけです。

水分は年月の経過によって少しずつ抜けていってしまうため、古くなれば金庫内を冷却するには不充分な量に減っていってしまいます。
そのような背景から、20年という使用期限が設けられているのです。

規格が設定されたのは2000年1月でした。
阪神淡路大震災時に古い金庫の多くが燃えてしまったことが契機となり、その後、耐火金庫の規定が厳格になりました。

2017/9/19 火曜日

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各国の銀行、証券会社、保険会社などが所狭しと建ち並び、世界の金融の中心地として名高いウォール街。
目に見えない壁が、零細企業の進出を阻んでいる???
いいえ。
かつては実際に“壁”が存在していたのです。

アメリカ合衆国独立以前の17世紀初頭、ニュー・ヨークは“ニュー・アムステルダム”と呼ばれていました。
その名が示すように この地域がオランダの植民地で、西インド会社がマンハッタンに駐在員を派遣していたそうです。
現在のウォール街周辺には約1,000人のオランダ人が居住していたといいます。

ヨーロッパから移住した者にとっての不安は、先住者である“本来のアメリカ人”(かつて“アメリカインディアン”と総称されていた、アパッチ族、スー族、チェロキー族などのネイティヴアメリカン)が土地を取り戻しに襲撃してくるのではないかというものでした。
土地を奪った者故の身勝手な不安といってしまえば それまでですが、不安を抱えたままでは平穏に暮らせません。
そこで、ペーテル・スツィフサントなる人物が この地区を木の塀で囲い、先住者の侵入を防ごうとしたわけです。

ところが襲撃されることもなく、無用の長物となった“壁”は1650年を過ぎる頃に腐り、倒れた痕跡が農道のような形になって残りました。
これがウォール街と呼ばれ、現在に至っているのです。
銀行、証券会社、保険会社が進出し始めたのは1830年代以降のことで、株式会社のなかった時代は、主にトウモロコシや小麦粉といった農作物、また“奴隷”の取引のために、商人たちが集まっていた場所でした。

2017/8/21 月曜日

積乱雲

Filed under: 未分類 — アートメモリー @ 0:14:20

最高気温が30℃を超す日を真夏日、近年では35℃以上の猛暑日なる気象用語まで登場しましたが、急激な気温の上昇と共に大気が不安定になると、激しい雷雨に見舞われることは少なくありません。
これも新たに使われ、あっという間に定着したゲリラ豪雨が、日々どこかで発生しています。

普通なら午後6時頃でも まだ薄明るい この時季、日没前にもかかわらず急に空が暗くなり、どこからともなく雷鳴が響き出してきます。
夏の雲といえば青い空と白い雲を連想しますが、激しい雷雨をもたらす雲は黒く暗い雲です。

細かな水蒸気や氷の粒が集まり、雲ができます。
元来、雲は無色透明なものなのです。
太陽の乱反射により、それらは白く見えたり黒く見えたりするわけです。
層の薄い雲は太陽光が雲の下まで通り抜け、地上から白く見えます。
層の厚い雲は太陽光の殆どが層の上方で乱反射してしまい、光を遮ってしまうため、黒く見えるのです。
台風の渦状の雲を上空から撮影した画像が白く見えることからも、雲そのものは黒くないことが わかると思います。

辺り一面が急に暗くなっていき、大粒の雨が加速度的に降り出す夕立ですが、この雨雲の正体は積乱雲(入道雲)です。
積乱雲は雲の下部のほうは上空500メートルほどのところにあり、上部は上空1万メートルほどにまで達しています。
つまり、とても層の厚い雲であることから、積乱雲の内部で上昇気流が発生し、水滴が雲の内部に留まったまま どんどん大きくなっていき、一気に落下すると……。
土砂降りの雨というわけです。

遠目からは白く見える積乱雲ですが、機会があったら光の届かない雲の下の部分を観察してみてください。
意外と黒っぽく見えます。

2017/7/18 火曜日

なんとも、お気の毒に…

Filed under: 未分類 — アートメモリー @ 0:24:57

一方が予め負けることを約束し、本番では一見したところ真剣勝負を装って戦うインチキ、不正は、《八百長》と呼ばれます。

明治時代、相撲会所(現在の相撲協会)に出入りしていた八百屋の長兵衛なる人物、通称・八百長さんが、よく1の年寄の碁の相手をさせられていたそうです。
この八百屋の長兵衛さんはなかなかの腕前だったということで、年寄には簡単に勝てる実力者でした。
しかし、お得意様の年寄の御機嫌を損ねないため、いつも1勝1敗になるように手加減をしていたのです。
このことから、インチキ、イカサマが、いつのまにか《八百長》と言われるようになってしまいました。
それが転じ、勝負事の際に示し合わせてもっともらしく振る舞うことや、馴れ合いのことも《八百長》と呼ばれます。

長兵衛さんとしては商売上のお得意様に花を持たせる意味合いでしていたのでしょうが、インチキの代名詞として後世に名が残ってしまったのですから、気の毒な話かもしれません。

2017/6/19 月曜日

ヤブ

Filed under: 未分類 — アートメモリー @ 0:26:00

古くは医師のことを【薬師:くすし】と呼んでいました。
南北朝後期から室町初期にかけて作られた書物・庭訓往来では、藪薬師という語句が登場し、三流医師の意味で使われています。
当時の狂言でも『薬種も知らぬ やぶくすし』と、揶揄の表現があったようです。

藪とは雑草や丈の低い雑木が密生している場所や竹薮の呼称で、それが腕の悪い医師とどう結びついたのでしょうか。

『ヤブ』は、元々『野巫』からきているのではないかといいます。

野巫、つまり巫医です。
医療が未発達だった時代は、呪術、祈祷、まじないによって病魔を追い払うことが治療行為でした。

気を確かに持つことで自然治癒力が促進され、治ることもあるでしょうが、中にはもちろん そのような手法では決して根治しない疾病もあります。

時代と共に少しずつ医療といえる領域が広がっていくに連れ、巫医はすたれていくわけですが、そのようなところから治療の下手な医師(薬師)のことを『野巫医者』と呼ぶようになったのだそうです。

藪の字が当てられたのは、野巫が人里離れた草深い田舎に住んでいるイメージから、生い茂る藪を連想させたところにあるのではないかと考えられています。

ヤブ医者とさえも言えないほど低レベルの者は、俗にタケノコ医者と軽んじられます。
『(竹)藪にもなれない』というところからきているようです。

2017/5/15 月曜日

刃物

Filed under: 未分類 — アートメモリー @ 0:47:36

どうにもこうにも気の合わない、ギクシャクした状態のことを『反りが合わない』といいます。

『反り』とは、書いて字のごとく『反っていること』ですが、本来は“太刀”“刀”“脇差”“短刀”などの刀剣類に使われる表現です。
これらの刀剣類の湾曲部分が『反り』で、【鋒:ほこ】の先端と【棟区:むねまち】を結ぶ直線と、刀身との距離の最大のところの呼び名です。
刀身の『反り』は、1本 1本 すべて異なるため、【鞘:さや】も それぞれの刀身が きちんと収まるものを作ります。
つまり刀剣類というのは、他のものの鞘には決して合わないのです。

このことから、気心が合わない、しっくりいかないといった、収まりの悪い間柄を『反りが合わない』というようになりました。

江戸時代初期にできた【戯言養気集:ざげんようきしゅう】の上巻に、
「反りが合わぬ所あるを見るにつけても…」
との記述があり、その頃から すでに『気心が合わない』という意味で用いらていたようです。

その一方で、『気心が合うこと』を『反りが合う』ともいいます。
この表現は江戸時代中期の滑稽本の中に見られますが、次第に使われることが少なくなっているせいか、近年では『反りが合わない』という語句に較べて見聞きする機会が減っているかもしれません。

2017/4/17 月曜日

船に乗り、風に乗り…

Filed under: 未分類 — アートメモリー @ 0:13:03

日本では“菜の花蝶”という別名があるように、モンシロチョウはナノハナ、キャベツ、ダイコンなどのアブラナ科の植物を好みます。
古くは南ヨーロッパに生息していた このチョウは、現在、北アメリカからアジア、オーストラリア、ニュージーランドと、とても広い分布域が特徴です。

モンシロチョウが分布を広げていったのは、キャベツに紛れて船積みされたためではないかと唱えた昆虫学者がいます。
キャベツは地中海沿岸やヨーロッパの西海岸に自生していた植物でしたが、人の手によって栽培品種に改良され、大航海時代の16世紀以降は北アメリカや中国にまで普及した野菜です。

日本への伝来は18世紀初頭といわれます。
このとき、モンシロチョウはキャベツと一緒にやってきたのかもしれません。

また、自力で海を渡って来たという説も有力です。
チョウという昆虫は ときに大群を作って大移動をする性質があり、モンシロチョウも例外ではありません。

1988年7月19日から3日間、中国内陸部の甘粛省の興隆山でモンシロチョウと見られるチョウが夥しい大群を構成し、幅約100メートルにもなる渓谷を埋め、雪のように空を覆いつくしながら移動していったそうです。
【蝶雪】と呼ばれる現象だといいます。

このような群れの一部が偏西風に乗り、かつて日本へ辿りついた可能性も否定はできないようです。

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