お経という言葉は、バラモン教で用いられていたもので
サンスクリット語で「スートラ」、仏教独自のことばではありません。
スートラの意味は、家庭から国家にいたるまでの、さまざまな規則や規定を記した聖典類のことを指したものでこれを中国では音訳して「修多羅」としたり、儒教の「五経」(ごきょう)と呼ばれ 「経」と訳したのです。
仏教は日本に中国経由で入ってきたので「経」ということばで定着、使用されるよになりました。
経は「たて糸」「すじみち」「つね」と意味があるように、織物の縦糸がまっすぐ整然と並び、真理を意味し、真理を述べた聖典を経典と呼ぶようになりました。
お経が最初につくられたのは、釈尊がお亡くなりになった年(紀元前四八六)の夏。
阿闍世王の保護のもとに釈尊の五百人のお弟子たちが王舎城の七葉窟に集まり、
そこでお弟子の一人・阿難が記憶を頼りに語ったのを、摩訶迦葉を頭にしてそれぞれみ教えを受けた
大勢のお弟子たちが、それぞれに聞かれたものとを照合してまとめあげたのが仏典結集と伝えれています。
このときに伝えられた釈尊の教えが、現在の経典の原型とされています。
お経が「如是我聞」とか「我聞如是」の形で始まるのは、お経が結集されたときに阿難が
「私はこのように(釈尊から)聞きました」といって、釈尊が説かれたところを述べたからです。
阿難は多聞第一といわれ記憶力に優れた方で、釈尊のそばにいつも従っていた高弟です。
この結集のときにまとめられたお経を、伝承された経典という意味で「阿含経」といいます。
大乗経典は、釈尊のみ教えを展開する意味で、「如是我聞」の形式を具えた仏説として説かれました。
初期の大乗仏典には、「般若経」「維摩経」「華厳経」「法華経」「無量寿経」などがあり、
紀元200年ころに、竜樹が、「中論」「大智度論」など般若(智慧)と空を説く論書をつくりました。
中期には「解深密教」「如来蔵経」「涅槃経」「勝鬘経」「入楞枷経」。
紀元後600年以降の後期には「大日経」「金剛頂経」諸陀羅尼などの密教経典が生まれました。
現在私たちが「お経」というのは、これらの総称で別名「大蔵経」とか「一切経」と呼ばれ
「大正新脩大蔵経」によると十の部門に分類され、合計1,460部、4,225巻になります。